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2015年5月10日日曜日

先祖を訪ねる

亡くなった母が生前口にしていたことの真偽を確かめるため、60代半ばにさしかかっての決断で安城市を訪問しました。2015年5月9日。

まず訪れたのは「安城市歴史博物館」驚くほど立派な建物です。案内してくれたボランティア氏によると「当時だから建てられた、今ならとても無理だ」という建物で、創立は1991年(平成3年)。バブリーな時代、と同時に建設を決断したひとの力も。

http://www.katch.ne.jp/~anjomuse/  安城市歴史博物館



縄文弥生時代の土器や道具など、当時の暮らしぶりが分かるような展示があります。私は、埋葬人骨のレプリカから頭の形がいいことに驚き、顔面が扁平なことからあまり美人でない顔を想像し、面白かったです。

ここで案内のボランティア氏が声をかけてくれました。専門家ではないのですがと。後の江戸幕府を開く礎となった松平家の解説には力が入ります。

家康が三河出身の印象が強いけれど、安城(安祥)城での4代があればこそだというのです。



さて、なぜ安城市歴史博物館かというと、安城市では母の旧姓「太田」に特別な印象があるらしく、郷土の歴史の研究をする場所なら分かることもあるのではと思ったからです。


果たして、学芸員氏は熱心に話をしてくれました。力丸伝説(太田家では、太田力丸が始祖とされる)にまつわる力丸塚、太田家ゆかりの上宮寺など現地で見せてくれました。
太田家の伝説では力丸が聖徳太子の牛車がぬかるみにはまったのをつるをかけて助け出したので、その功により太田姓と家紋「ゆうごんづるに片は車(牛車の車の半分)」を許されたというのです。

聖徳太子がわざわざ当時荒れ地のこのあたりに足を運ぶことがあったか。疑問ですね。
家紋だけは呼称にふさわしいデザインでありましたが。



上宮寺はあいにくの火災で燃え落ちて、重要な文物も焼失したそうです。ために上宮寺のある岡崎市から再建への援助はなく、自力再建となりました。

そもそも本山末寺関係のあったころ本山として末寺からの上納で成り立っていた上宮寺。時代が変わってみると檀家のいない寺ということになりました。檀家は末寺にいたのです。

再建のための資金が乏しく、往時の姿に戻ることはありませんでした。どんな寺姿になったか、ご興味のある方はぜひご来観ください。(宣伝?)



三河真宗といわれて、徳川家康に抵抗した三河一向一揆の土地柄です。
上宮とは聖徳太子の別称で、上宮寺は聖徳太子を篤くまつるお寺だそうです。日本に仏教をもちこんだ聖徳太子をここまで祀るのは浄土真宗ならではとのこと。

そこが太田家ゆかりの寺というなら、太田家も当時は浄土真宗の運動の先鋒だったかもしれません。でも重要な文物が焼失したそうですから、もはや残る資料は無いのかもしれません。今後の課題として残りました。


安城市には太田屋敷という字(あざ)名があります。そこが母方の祖父の本籍地でした。

太田一族の伝説はまだあります。材木商や新田開発で財を成したというのです。学芸員氏も太田家が幕末の数十年、地元はいうに及ばず、江戸京都と広域で事業を展開したことを調べ上げています。そのほかにも、銀行を始めた、鉄道を敷いた、などなど。

それぞれ確かに記録はあるようですが、それとこの太田と関係があるのか。知りたいことでした。太田屋敷という地域に行ってみました。移動はすべて学芸員氏の車のおかげです。本当に交通の便の悪いところです。



左は古い住宅地図の写真です。この地図で一番大きな区画のところが本家中の本家の太田家とのことです。ここで37代つづくというたいへんな太田家です。(学芸員氏による)

ここから江戸時代末期ごろ、本家佐兵衛から長男徳九郎が分家して江戸に進出したそうです。こちらが江戸深川上木場に材木商を営んだ家系のはじまりとか。

本家の佐兵衛家のほうに、開港前後の横浜で新田開発した太田敬明という人がいたようです。



そもそも新田開発とは、そこが融資を受ける際の担保にもなるため、資産を形成する意味があったそうです。学芸員氏の研究成果の受け売り。

幕末の太田屋新田は苦労して開発したようですが、ほどなく当該地の風紀の乱れを嫌気して売ってしまったというのが後日談。太田屋新田については横浜市開港資料館を訪問してみてください。



太田屋敷の辺をうろうろしていると、一人の男性を見かけました。なんだかその人に声をかけなければという気がして、駆け寄りました。果たして、その方はこの地域の一画に住んでおられて、しかも祖父の名前を覚えておいでの太田氏でした。ああ、天運!

やっさんて呼んどった。(私の祖父は)大阪へでたやろ?
はい。大阪で太田鉄工所をしてました。
うん、うん。家がすぐ隣やったから小さい頃行き来したで。
ほんとうですか。
ここに(現地で指差して)住んどった。今は家が5軒建った。
昭和30年代頃、一家で法事の時に来たな。
そうですか。祖父はその後ほどなく亡くなりました。
もうこの辺のことが分かるのは俺くらいやな。もう誰もおらんで。

ちなみに母方の祖父の本籍は太田屋敷30です。

母以外でこの太田氏からふたたび「ゆうごんづるに片は車」の伝説を聞くことができました。
一番聞きたかった横浜市の「太田屋新田」のことも、ああここからでた人やで、ということでした。家系図的にはと聞くと、「家系図?ここの一統や一統」で片付けられてしまいました。

出て行く人もあり帰ってくる人もあって、時間が経つと名前は太田でも関係がよく分からなくなってしまうのでしょう。でもそれぞれが元の本籍をここだとは言い伝えられていて、だから太田屋敷にもどって来るのではないでしょうか。

ちなみに祖父は大阪に出て鉄工所で成功を収めたのち、空襲で焼け出されて安城に戻っては来たものの、本籍地ではないところに居を構えました。どんないきさつがあったかはわかりませんが、戸籍ではそうなっています。





「ゆうごんづるに片は車」
どういう字面なのか知りません。
全国規模の家紋集にも掲載が無いそうです。







畑の中の墓地に行きました。
上の家紋は墓石から写しとりました。太田家の墓にはかならず刻まれています。
さきほどの太田氏によると一族の墓所であるとのことですが、他家のお名前もあり、地域の墓所というものだったかもしれないね、と学芸員氏とうなづきあいました。

数十の墓石が並んでいました。私が安城市からもらった戸籍の古い方に載っているお名前が墓石の横腹で消えんばかりの状態でした。ただ、それ以上古いお名前が無いので、その古い時代の墓がどうなったのかはまたまた疑問として残りました。

最後に。

墓の場所は東海道新幹線が遠望できるロケーションにあります。
帰りに上りののぞみの窓から確認することができました。

今回の安城行は、ひとえに安城市歴史博物館の学芸員氏のおかげです。知識といい車といい、ふらっと行って何とかなる場所ではありません。今度自力で訪れるとしたら、タクシー使いまくりか体力勝負(歩き?南安城駅にレンタル自転車があった。太田自転車だって)しかないでしょう。


こうして少し歩いてみて感じたのは、どの時代でもどの人たちも一生懸命に生きていた、いい加減には暮らしていない、ということでした。その結果は豊かな生活であったり、多様な事業という面白みであったり、ときには地域に富の還元も出来て(上宮寺の手水舎に太田佐兵衛と太田徳九郎の銘のある大きな石の手洗い場がありました)地元で尊敬を集めることもあったでしょう。たくさんの人たちと一緒に大きな事業を成していったという時代の風景も描けるような気がします。

それから江戸、明治は地続きだと感じることもできました。


いい旅になったと思っています。
機会を作ってもう一度訪れたいです。
先ほどの太田氏は70代後半。私も60代半ば。時間はあまり無いですね。

アンテナを張っていればまた新たな資料を目にすることができるかもしれません。



(寿)




2011年5月25日水曜日

見たくないもの

見たくないもの、知りたくないものを、見たり、知ったりするのはとても面倒くさい。
目をそらし、耳を塞ぎさえすれば楽に暮らせるなら、誰が見たり聞いたりするだろう。

知りさえすれば考えられるけれど。考えても独りじゃどうにもできないから。

そりゃあそうだ、そりゃあそうだ、かしこい生き方だ。

楽しいのは一番だ。楽なら最高だ。

それで何かあったとき、テレビが腰抜けのせい、賢い人のはずなのに選択を間違ったせい、と言ったってそれはむちゃくちゃだ。自分じゃ何も決めていないのに、と思って言ってるのだろう。

違うのだ。あなたは立派に選択したのだ。

見ない、知らない、考えない、人の後についていく、と。

その結末はもう選べない。

2011年5月20日金曜日

原発事故って、なんだ

原発事故がどうして起こってしまったか。
東電の隠蔽体質とか、学者が御用学者になったからとか、それは金の力だとか、原発村があったとさ、とか。きっともっともっと、直接に原因と言えることはあるんだろう。

それでもなんだか釈然としない。どうして御用学者になったのだ?どうして隠蔽体質があるんだ?どうして札束でほほを打たれたらなびくのだ?もっともっと、根っこに何かあるに違いない。なんだか、まだ追求しきれていない感じがする。

原発事故だけじゃないぞ、隠蔽というならどこの会社もやりかねないぞ。会社だけじゃない、隠したいと思ったら何だって隠したくなるぞ。隠さずに知らせる、ことができなくなるのはなぜだ。どうだ。まだまだ、釈然としないことがあるだろう。

東電を隠蔽だ、嘘つきだ、学者は金に負けた、と批判するのはとりあえず正しい。しかし、根本解決になったとおもったらきっと、まちがい。だって、モグラたたきに過ぎないよ、なぜってまた他で繰り返すに決まっているから。

社会に透明性とフェアネスが普通になるために、解決しなくてはならないものはもっと大きい。